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なぜ大人「ぬい」を連れて歩くのか――小さな相棒と生きる人たち

 最近、「ぬい」という言葉に立て続けに出会いました。

一つは、こどもと遊んでいたゲームの中でのこと。
もう一つは、大人がぬいぐるみを外へ連れ出して写真を撮る「ぬい活」をめぐるニュース記事でした。

カフェや旅先にお気に入りのぬいぐるみを連れて行き、食事や風景と一緒に写真を撮る。
その行為は、一見すると、こども心の延長や、現代人の孤独を埋めるための現実逃避のように見えるかもしれません。

もちろん、公共の場でのマナーは大切です。
ただ、今回考えたいのは、ぬい活の是非ではありません。

私が興味を持ったのは、なぜこれほど多くの人が、小さなぬいぐるみに心を寄せ、日常の中へ連れ出しているのか、という点です。

「大人なのにぬいぐるみを連れて歩くなんて幼稚だ」と切り捨ててしまうのは簡単です。
しかし、少し視点を変えると、ぬい活は、私たちが慣れ親しんできた物語文化や、日本人が古くから持っている「小さきもの」を愛でる感性と、深くつながっているようにも見えてきます。

たとえば、アニメや漫画の主人公のそばには、しばしば「小さな相棒」がいました。
『ポケットモンスター』のピカチュウ、『カードキャプターさくら』のケロちゃん、『魔法騎士レイアース』のモコナ、『幽☆遊☆白書』のプー、『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』のゴメちゃん。

こうした存在は、単なる可愛いペットではありません。
主人公の内面を映し出す鏡であり、孤独な冒険を支える同伴者であり、物語の中で「この子は特別な使命を持っている」と示す記号でもありました。

また、日本には古くから、小さなものを愛でる感性があります。
清少納言も『枕草子』の「うつくしきもの」の段で、小さなもののかわいらしさを書き残しています。

小さく、手のひらに収まり、どこか頼りなく、思わず目を向けたくなるもの。
そうした存在に心を寄せる感覚は、現代のぬい活にも通じているのではないでしょうか。

ぬいを連れて外に出ることは、ただのお出かけや食事を、少しだけ物語に変える行為でもあります。

カフェのテーブルにぬいを置く。
旅先の風景と一緒に写真を撮る。
「この子がケーキを見ている」
「この子が初めて雪景色に出会った」

本気でぬいぐるみが生きていると信じているわけではない。
けれども、現実を半分だけ物語として捉え直すことで、日常の景色は少しだけ違って見えてくる。

この「見立て」の力は、作文教育にも通じます。

国語開化塾では、ものごとを考えるときに「具体と抽象の往復」を大切にしています。
目の前の流行を、ただ「好き」「嫌い」「理解できる」「理解できない」で終わらせるのではなく、その背後にある人間の欲求や文化の構造を考えてみる。

ぬい活も同じです。

「ぬいぐるみを連れて歩く大人」という具体的な現象だけを見れば、奇妙に思える人もいるでしょう。
しかし、それを「小さな相棒を持つことで、自分の日常を少しだけ物語の主人公側に寄せる行為」と抽象化してみると、まったく違う見え方が生まれます。

未知の流行や、理解しがたい他者のこだわりを、すぐに切り捨てない。
一度立ち止まり、「なぜ人はそれに惹かれるのか」と考えてみる。

そこにこそ、作文や国語の学びにつながる思考の入口があります。

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この記事では要点だけを整理しました。
note版では、アニメ・漫画に登場する「小さな相棒」の具体例や、ぬい活をめぐる文化的・心理的な考察を、もう少し詳しく書いています。

▶ note版はこちら:【教育】なぜ大人「ぬい」を連れて歩くのか――小さな相棒と生きる人たち|国語開化塾




作文で「いいこと」を書けるだけでは足りない――AI時代に必要な“葛藤を言語化する力”

 この記事は、noteに掲載した文章をもとに、Blogger向けに再構成したものです。

note版では、映画『ジュラシック・ワールド/炎の王国』の結末への違和感を出発点に、現代の教育現場にある「綺麗な正論で思考が止まってしまう問題」について、少し長めに考えています。

ここでは、作文教育・読書感想文・AI時代の文章指導という観点から、要点を整理してみます。




こどもたちの作文や読書感想文を読んでいると、時折、非常に「耳ざわりの良い言葉」でまとまった文章に出会うことがあります。

「友達を大切にしたいと思いました」
「命の大切さがわかりました」
「みんなが相手の気持ちを考えれば、争いはなくなると思います」

もちろん、これらは大切な言葉です。
こどもがそのように感じること自体を、否定する必要はありません。

しかし、作文指導の立場から見ると、そこで思考が止まってしまうことには危うさもあります。

「命は大切」と書けることと、命と命が衝突したときにどう考えるかは別の問題です。
「友達を大切にしたい」と書けることと、友達が間違ったことをしたときにどう向き合うかは別の問題です。
「みんな仲良く」と書けることと、どうしても合わない相手と同じ場所で過ごす方法を考えることは、まったく別の問題です。

作文教育で本当に大切なのは、こどもに「正しいこと」を言わせることだけではありません。
正しいことの先にある葛藤や、選択に伴う責任まで、ことばにしていく力を育てることです。


映画の結末が残した違和感

このことを考えるきっかけになったのが、映画『ジュラシック・ワールド/炎の王国』の結末でした。

作中では、クローン技術によって現代に蘇った恐竜たちが、施設内で命の危機にさらされます。
そのとき、一人の少女が「彼らも私と同じように作られた、生きている命だから」という理由で、恐竜たちを人間社会へ解き放ちます。

目の前で消えゆく命を救いたいという気持ちは、美しいものです。
「作られた命」であっても命である、という考え方にも、現代的な倫理観が表れています。

しかし、冷静に考えると、この選択は極めて危ういものでもあります。

解放された恐竜の中には、巨大な肉食獣も含まれています。
彼らが人間社会に放たれれば、無関係な人々が襲われ、社会の安全は大きく揺らぐでしょう。

つまり、「目の前の命を救う」という部分的な正義が、結果として別の人々の生活や安全を脅かしてしまうのです。

さらに見過ごせないのは、その後のツケを誰が払うのかという問題です。
少女は「命を救った」と感じたかもしれません。
しかしその後、社会を守るために、別の誰かが恐竜の命を奪う決断をしなければならなくなるかもしれない。

美しい善意の裏側には、別の誰かに押しつけられる重い責任がある。
この構造は、教育の場にも通じているように思います。


「いいことを書けたね」で止めてよいのか

作文や読書感想文の指導でも、こどもが「正しい結論」にたどり着くと、大人は安心してしまいがちです。

「いいことを書けたね」
「優しい考えだね」
「その気持ちを大事にしようね」

もちろん、こうした受け止めは必要です。
けれども、それだけでは思考は深まりません。

たとえば、読書感想文で「主人公のように友達を大切にしたい」と書いたとします。
そのとき、本当はさらに問いを重ねることができます。

主人公は友達を助けるために、自分の何を犠牲にしていたのか。
友達を助けることで、別の誰かを傷つけてはいなかったか。
そもそも「友達を大切にする」とは、何をすることなのか。
間違ったことをしている友達も、ただ肯定すればよいのか。

このように、正しい言葉の先には、必ず考えるべき問題があります。

ところが、作文指導の場では、「自分の思ったことを素直に書ければよい」というところで終わってしまうことがあります。
それは、こどもの自尊心を傷つけないという意味では優しい指導かもしれません。
しかし、論理的な破綻や、他者へのしわ寄せを見ないままにしてしまうなら、文章力はそこで止まってしまいます。


作文教育で育てたい「葛藤を言語化する力」

現実の社会は、綺麗事だけでは動いていません。

資源には限りがあり、利益は衝突し、人間関係には相性があります。
どちらを選んでも、誰かが傷つく場面があります。
何かを守るということは、別の何かを犠牲にすることでもあります。

だからこそ、作文教育では、あえてこどもたちに「簡単には答えが出ない問い」を考えさせる必要があると考えています。

たとえば、次のような問いです。

環境保護は大切だが、それによって生活が苦しくなる人がいる場合、どう考えるか。
友達を助けたいが、その友達が明らかに間違ったことをしている場合、どう向き合うか。
みんなの自由を尊重したいが、その自由によって誰かが傷ついている場合、どこに線を引くべきか。

こうした問いには、簡単な正解がありません。
どちらを選んでも、何かが残ります。
どちらを選んでも、誰かに負担が生じる可能性があります。

けれども、だからこそ考える価値があります。

「たしかに理想は〇〇である。
しかし、現実には××という問題がある。
それでも私は、△△という理由でこちらを選びたい。」

このように、自分の選択が生む負の側面まで含めてことばにする。
それが、作文教育で育てたい思考の深さです。


AI時代の作文教育に必要なもの

いまは、AIに「命の大切さについて書いて」「環境問題について作文して」と頼めば、整った文章がすぐに出てきます。

AIは、綺麗な正論を書くことが得意です。
非の打ち所のない模範解答のような文章を、短時間で作ることができます。

だからこそ、人間の学びでは、AIが通り過ぎてしまう部分を考える必要があります。

その正論の裏側に、誰の負担があるのか。
その理想を実現するために、何を犠牲にするのか。
その選択によって、あとから誰にツケが回るのか。

こうした問いを自分の頭で考え、自分の言葉で引き受けること。
それこそが、AI時代における作文教育の意味ではないでしょうか。

作文教育が担うべき役割は、こどもたちに「正しいこと」を言わせることだけではありません。
正しいことの裏側にある苦しさや、選択に伴う痛みまで、ことばにする力を育てることです。

綺麗な正論を語れることは大切です。
しかし、綺麗な正論の先にある葛藤まで見つめ、自分の選択に伴う責任をことばにできることは、もっと大切です。


note版はこちら

この記事は、note掲載記事をBlogger向けに再構成したものです。
映画の結末への違和感や、教育現場における理想主義の問題について、より詳しくはnote版で書いています。

▶ note版:「命の尊さ」という綺麗事の先にあるもの——『ジュラシック・ワールド』の違和感から考える教育の責任|国語開化塾



読者の皆様へ

ご家庭や教育現場で、
「聞こえはいいけれど、実は現実の課題や将来の責任から目を背けさせてしまっている言葉」
には、どのようなものがあるでしょうか。

ぜひ、日々の作文指導やこどもとの対話の中で考えてみてください。


コラム 第42回

【テストでみる/人間をみる】


こんな記事を読みました。
回数減、持ち込み可…定期テスト見直しの動き 『教員の意識も変わった』ある中学校の取り組み
9/29(日) 配信 西日本新聞
テスト結果を重んじる従来の教育から学びの過程を重視する手法へと転換する動きの一つとして、定期テスト自体の意義見直しから全廃の訴えまで、全国いくつかの学校で取り組みが進んでいるとのこと。

💯
敢えて極端なことを言えば、テストなんてしなくたって、次の3つを見ていれば、生徒の能力、今後の伸びしろなど、よく分かるものです。

◆授業中の様子
◆授業中のとっさの質問への返し
◆質問してくる姿

テスト、特に「定期的な」テストなんて受身で期限付きのものは、廃止したほうが良いでしょう。 電卓人間は要らんのです。
💯
「授業中の様子」という項目に関して補足するなら、別にまじめに聞いているかどうかが全てではありません。
場合によっては、内職をしていたっていいでしょう。 それが自身のための勉強になるならば。 姿勢の問題です。

ただ【能力・学力の養成のために必要なことを話すのが先生の役割】という大前提に立ったうえで、「聴く必要のある話」というものをメモすることは必要でしょう。(板書を写すのではなくて)

アンテナという意味での「聴く耳」を持たず、ぼぅ~っと呆けていたり内職にだけ夢中になっているようなのは、テスト前だけ頑張ったとしても、評価に値するものではないのです。
授業の中で、常に試す。 それでいいのです。 先生も試されます。
💯
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190929-00010003-nishinpc-soci

コラム 第41回

【パンの現在、教育の未来】

#乃が美 の高級「生」食パン一斤をお客様からいただいてしまいました!
たまごを使用せずつくられた、そのままちぎって楽しむ、ふーわふわ食パン。
何もつけなくても、焼かなくても、そのままで美味しく楽しい「生」のこだわり。
ずっとずーっと食べたいと思っていました。 まさに念願の!という感じ。
🍞
素敵なおすそ分けに与り、ハイテンションで臨んだ今日一日の授業。 ですが、
そんなウキウキ、生徒たちには一つも漏らすまいと、能面のように顔色変えず、いつも通りフラットな声と心の調子を維持して進行しました。
🍞
ところで、少子化と09年からの米飯給食推進の影響で、給食パンの製造者が半減したのだそうです。 以前TVで見かけました。



米派vsパン派の論争は置いておいて、そもそも、こどもたちが美味しくないと口をそろえる給食のパン。 その理由は、学校給食の始まった60年前からレシピを変えられないから。 そりゃいくらありがたく食べなければならないとはいっても、美味しくはないですよね。
給食からパンが消える理由が、柔軟性のなさ、怠慢にもあるのだとしたら情けないことです。 日本にはおいしいパン文化がしっかりと根付いて、いまも革新が続けられているというのに!
🍞
一方で、学校教育が昨今行おうとしている変化は、ホンモノでしょうか。
これまでの怠慢から抜け出す、画期的なものとなっていくでしょうか。
変わらない学校教育へのあきらめから、民間の塾などが学習の先進的な現場としての役割を担ってきた経緯が過去にあります。
民間教育の側から、リードする立場として、これから進められていく改革を注視していかなくてはいけない。 そう思っています。


※米飯給食……次世代の米消費の主体となるこどもたちに、コメを中心とした日本型の食生活を受け継いでもらうため始まった給食制度。

コラム 第40回

【新型大学入学共通テスト・試行試験】
きました! きました!
いよいよ、大学入学共通テスト・新形式が動きはじめました。
今日・明日で、およそ8万4千人が参加し試行試験が行われるようです。

東京新聞Web版より引用

問題文がまわりくどいだの、記述に時間がとられるだの、リハーサル試験に臨んだ高校生たちはさまざま“壁”を感じたようですが、微調整はしても、方向性を変える必要はナシ!
朝日新聞DIGITALより引用


朝日新聞DIGITALより引用

読解力がない、パターンで読む“ニセモノ読解力”だけを既存の進学塾で獲得してきた人たち、アイディアの出し方を知らない人たちでは歯が立たないような問題で良いのです。
長い目で見れば、思考力を問う試験に対する十分な準備・訓練こそが、世の中に出て役に立つものだと気づけるから。

コラム 第39回

【「矛盾する先生に従う気がしない」高校生の悩みに前川喜平の回答は?】
上のタイトルから、リンク先の記事をまずはご参照ください。
🏫
すでに前川氏も答えていますが、“学校の先生”に限らず、矛盾する大人には、
・彼らに同情してやるか
・彼らと議論するか
この2つの対応しかありません。
矛盾したことを言わなければ立場を守れない窮屈そうな中にいる存在として、いったんその大人を認め、同情してあげる。
あるいは、矛盾をついて、信じられる道を模索する。議論は正しく行えば、確かに“私”を真実に近づけてくれます。
🏫
私も、どちらでも良いと思います。
作文塾主宰だからと、議論ばかりを奨めるのではありません。
ただ、何より大切なのは、学生自身が信念に従い行動することでしょう。握りしめて放したくないほどの信念でないと気づいたなら、鞘に収めるのもまた正しいと言える場合があります。
もし踏み出せば、その一歩が、世の中へのあきらめを抱かせるものになるかもしれませんし、これからの“私”を方向づけるものとなるかもしれません。
とにかく、選択したことは全て、ぜーんぶ、自分に還ってくるのだと理解して、自らの身の振り方を決めるのです。

コラム 第38回

【必要な子には、必要なタイミングで、失敗をさせる】 2/2


宿題を期日までに間に合わせられない子には、失敗させなければいけません
失敗を正しく“失敗”にしてあげなければいけません。
責任ある立場から怒られ、仲間に嘲笑され
悔しさを覚えてもらわなければなりません
失敗を繰り返さないために、正直に“失敗”としてあげなければいけないのです。
🍉
親が“失敗”の隠蔽に加担してしまえば、こどもは学びません。
目の前の評価は落ち着いても、その子はその道の先で、同じ失敗を繰り返すでしょう。
その度に親が守れば、親が守ってあげられなくなる時期まで学ばず、同じ種類の、しかしより大きな過ちによる過大な責任を突然一人で背負うことになって、絶望します。
🍉
その“絶望”こそが、その子に与えられた“失敗”であり“試練”だと周囲は無情にも言うのです。
でも、それでは手遅れ。
もっと早いうちに、その子の性質からくる“失敗”を経験させることができたはずなのです。
🍉
「かわいい子には旅させろ」
誰もが知っているこのことわざには
・自己責任で“失敗”を背負わせること
・他人様に目一杯怒られてくること
・必要ならば世間で笑われること
そんな意味まで含まれているのではないでしょうか。
何にせよ、親元を離れることに本質はありそうです。
🍉
9月3日、明日が始業式の学校も多いでしょう。
宿題を自力で終えた子は胸を張って、負えられなかった子は肩を落として、それぞれクラスへ向かいましょう。
肩を落とし反省すべき子が勘違いし胸を張る、そんな子育て・援護が各ご家庭に無いことを願っています。
🍉
人間は、失敗と後悔からしか学びません
その“失敗”を安全に経験させるのが教育の役割なのです。
決して、こどもからその機会を奪ってはならないのです。

コラム 第37回

【必要な子には、必要なタイミングで、失敗をさせる】 1/2

夏休みの宿題代行について「メルカリなどが禁止」等々、今年も話題になっていましたね。


当塾では『宿題ひきうけ株式会社』という作品を題材に#読書感想文 を書くとき(主に5年生)、毎年生徒たちと考え続けてきました。

私の主宰する作文教室へいらしていただいているご家庭には、宿題代行を利用するようなクズ思考の親御さんはいないでしょうけれど、もう一つ私が生徒の家庭環境として望むのは「宿題を手伝わない」というものです。
🍉
もちろん
「課題を前にして、アイディアを出し一緒に考えてあげる」
これはいいです。むしろ推奨します。
こどもたちの意見を聞いてから、それを掘り下げてあげたり、経験に裏打ちされた大人の考え方を披露してあげることは、こどもの脳のつかえる面積や分野を耕し広げてあげることにつながります。
🍉
ダメダメなのは
「間に合わないから、作業を手伝う」こと。
これはダメダメで、ダサダサです。親として。
これをするなら、その子の親ではありません。
こどもから成長の機会を奪う山賊か
あるいは自己満足を追い求める堕天使。
親であることをやめてしまった人です。
(つづく)

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コラム 第36回

【お母さんは、きみを想ってる】
これは、夏休み中に再放送されていた#NHK #Eテレ こどものための哲学番組「Q」で、「なんでお母さんはいつも怒るの?」というテーマの中、お母さんパペットから出てきた言葉だ。

しかし、これほど邪魔な感覚はない。
「お母さん」を他の言葉に置き換えてみれば分かる。力の強い者が、情緒的に自身の正当性を訴えるときの常套手段だ。

こころから相手を想っている場合、私たちはただ見守る。あるいは静かなアドバイスを送る。これには忠告も含まれる。静かなのだ。自分で考え、自分の足で歩んでもらうためだ
それが番組で議題に上がっていたガミガミガミガミという怒り方になると、怒る側の“満足”という無意識の問題が頭をもたげてくる。
相手を一人の“人間”として尊重する気持ちがなくては、ただ感情としての“怒る”であって、人を育てる“叱る”にはならないのである。

「なんでお母さんはいつも怒るの?」に対する私の答えは、次の通りだ。
お母さんやお父さんがガミガミ言うのは、お母さんお父さんの“満足”にキミたちが到達していないことに我慢ができないからだよ。“親”という冠は時々、キミをキミとして見つめることを忘れさせるんだ
つまりは、怒る本人の未熟さの顕れだ。その怒り方を人前では決して出さないのも、それを表している。ガミガミの中にあるのでは、こどもたちも大切なことに気がつきにくい大切なことは静かな中で、いつもハッと気づかされるものなのだ


こどものための哲学番組「Q」は、いつも楽しく見させてもらっています。
噛みつく内容があるなんて、今回が初めてです。
引き続き応援したい番組ですので、皆様も機会があればお子さまとご覧になってください。

コラム 第35回

読書感想文を機に、特に児童諸君から、読書する楽しさを続けて体感してほしい。
物語が、美しい挿絵の力もかりて、手に汗握る冒険の旅へと誘ってくれるのだ。
そう、“体感”や“誘う”といった語がまさに相応しい。
📕
書物が最大の娯楽であった頃から、いつでも私たち読み手の想像力を試すように綴られる壮大な冒険や不思議の数々は、時を経て色褪せることがなく、映画やTVドラマ、アニメにゲームなど、その中に物語を楽しむことができる娯楽の数多く存在する現代においても、新鮮な体験を提供し続けてくれる。
📕
ヴァーチャル・リアリティ(VR)の開発が進められている一方、高いお金を出して遠出することもなく自宅で別世界を体感できるアナログVR、それが読書なのだ。
その旅は、どこへでもつづく。宇宙の果てでも、精神の果てへでも。


コラム 第34回

この夏、NHK for School・Eテレでふしぎエンドレスという番組が(おそらく第1学期分再)放送されていた。
教科で言えば「理科」だろうが、その枠を飛び出し、疑問を持つこころ自体を育もうとしていた。
「ふしぎ!が増えれば、知りたくなる」とかなんとか、番組キャラクターが言っていたのがコピーだろう。
💥
2018年度から採用の新学習指導要領に沿った「主体的で対話的で深い学びの姿勢」を育てる内容だった。
Aの疑問にはA'、Bの疑問にはB'と、それぞれ答えが用意されており、その知識の吸収と定着を目指すのがこれまでの学習のメイン。もちろん疑問を自力で持てる子には「素晴らしいですね」と声がかけられたが、先生の多くも知識脳だから、その先へ柔軟に光が当てられることは、学校教育では少なかった。
それがどうだ。この新しいTV番組は、サンプルとなる学びがあったあと、いくつかの疑問を提示し“教室”のこどもたちに予想させるが、こたえは示されないまま番組は終わる。視聴者となる子の親世代には、モヤモヤもどかしさの止まらない方も多いだろうが、様々に疑問を立てて、ふしぎについて多角的に予測・検証しようとする姿勢を養うほうが、解答を与えるよりも尊いのである。特に教育の意味、役割としては。
💥
#開成 #筑波大附属駒場 など、最優秀と考えられる高校から、お相撲の懸賞金束みたいに、この春まとめて合格通知を受け取った子へ、以前、期間限定の作文指導をしたことがある。
すでに模試成績の最上位クラスを定位置としていたらしい彼だったが、授業中でも普段の会話でも、私との間で彼から最も多く出てきたのは「わからない」という言葉だった。もちろん、ソクラテス的な“無知”などではない。本物の“思考停止”だ。悪く言いたいわけではないが、そういう子には、既存の模試とは別尺度の客観視点から「合格圏外」を伝えるしかできない。“優秀”には程遠い。知識脳は、模試以外ではツカエナイのだ。
社会は成長しようとしている。データは脳の外側に扱いを任せ、脳とこころをより有意義に使おうとする、そんな姿勢の人間を求めている
その入り口に立たせる初等教育の、それも試行段階の番組「ふしぎエンドレス」ではあるが、きらめきくらいの小さな光は、学校教育にも見出だせそうだと思わせてくれる内容だった。

コラム 第33回

【大学入試にも必要!?「ポートフォリオ」とは】 渡辺敦司
📁
もともとは「紙挟み」「書類入れ」の意味をもつポートフォリオが、いま教育界で「評価」基準として注目を集めているらしい。上記タイトルの記事で読んだ。
📁
教育界でのポートフォリオとは、学習の過程や成果などの記録を、計画的にファイル等にためておくことを指すが、紙媒体・電子データを問わず学習記録の蓄積状況を一覧することにより、学習者の学びのプロセスを読み取り、その成長過程自体を評価しようとするのが「ポートフォリオ評価」だ。
一発勝負のテストの点数には表れない様々な情報に溢れたものとなり、先生など担当者が評価対象とするだけでなく、子ども自身も、学習過程を客観的に把握、「振り返り」を通して自らの課題を見つけ、次の学習につなげることができる。今年から小・中学校で移行措置に入った新しい学習指導要領でも、主体的で・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)につながる「どのように学ぶか」の工夫を求めている。
また、入学者選抜の手法としても期待が寄せられている。選抜の際に評価すべき「主体性・多様性・協働性」が見て取れるだけでなく、成長の過程を追うことで入学後の「伸びしろ」も展望できるからだ。文部科学省の委託事業となっている高大接続ポータルサイト「ジャパンeポートフォリオ」(Jep)も稼働している。高校生が学習の記録や「振り返り」を電子データで蓄積しておき、それを受験先の大学が参照できる仕組みだ。
……と、以上のように記事では紹介されている。(一部割愛した)
📂
こどもに自律的に学び自らの将来を切り拓く力を付けさせるため、「ポートフォリオ評価」の考え方は各家庭でも大いに参考となるだろう。と筆者は結んでいるが、それら資料を有意義に扱える家庭は、いったいどれほどあるだろうか。
前向きな“自省材料になる”はずが、後ろ向きに“ケンカの元となる”ようではマズい。そもそも熱心なご家庭では、「ポートフォリオ」などと注目されなくとも子の成長を追える形で保存してきただろうが、それでも正しいアドバイスに繋げられることは少ないはずなのだ。評価基準の一つ、そして自らの足跡を見て見ぬふりせず客観視する材料として、この“成長記録”を扱うことには大賛成だ。だが、その管理に家族は介在すべきでない。まるで一つのストーリーを読むように、自分の中の物語性を読み取れる能力を持った子と、道先案内人としての先生だけでいい、というのが私の意見である。

“物語性を読む”力をつけるには、物語の要約作業読書感想文が有効だ。
そして、それらの課題が充実しているのは、もちろん国語開化塾!となる。

コラム 第32回

「きれいな字」を強要する大人へ、大切なのは【知の整理】
👂
上の提言をテレビで行っていたのは林修先生。私が宋美玄さんの記事を読んで意見を書くより前に、似たテーマで話されたようで、少しばかり恥ずかしい。教えてもらって、私もその放送内容を確認してみた。
👂
字が汚い方が良い/字がキレイだとダメ、ということではなく、学問において大切なのは、“文字”よりも“知”を整理すること。それが、林先生の伝えたかったこと。
4タイプに分けることができるこどもの字だが(下記参照)、林先生の経験上、優秀な生徒は④の「字は汚いが、知の整理が上手」で、①の「字がキレイで、知の整理も上手」よりも多かったとのこと。このことから、優秀な子には自分なりのまとめ方があり「自分が分かればそれで良い」と考える子が多いことが分かるのだという。
それにも関わらず、子どもに「きれいにノートを書きなさい」と強要した場合、きれいに書くことが目的となってしまい、最も大切な「知の整理」、書いていることを理解し情報をまとめる力が身に付かなくなってしまう可能性があるとも述べていた。
··························································
①字がキレイで、知の整理も上手
②字はキレイだが、知の整理が下手
③字が汚く、知の整理も下手
④字は汚いが、知の整理は上手
··························································
先の投稿2つと矛盾するようだが、作文の清書にあたっては、私も教室で「丁寧に書くこと」を生徒たちに求めている。それは……
◆現時点では魅力的な手書きロボットが手元にないから
◆作文を習いに来ている子たちの“丁寧さ”を育てるためには、清書で読み手(他者)を意識させることが必要だから
である。
決して何でもかんでも丁寧にきれいに書けと強要しない。メモのとり方は教えるが、メモの字については正に「自分で分かればいい」と伝えて自由にさせている。そして、タイピングができるようになった子から、清書の苦労ともおさらばさせるのである。
👂
“丁寧さ”を育てる先生は、自分の好きなこと追求したいことのそばにある
というより、雑なままでは追い求められないので、必要な“丁寧”をそれぞれが見出さざるを得ない。
美文字のチェーンなどでこどもたちを束縛するべきでは、本来ないのである。

コラム 第31回

【ロボット書道】人工知能が手紙を代筆する時代が来る?「PENDROID」とは

紙に書かれた完璧な美文字も実はロボットによるものである、そんな紹介動画付きの記事を読んだ。(記事タイトルは上の通り!ぜひ検索して読んでください)

「PENDROID(ペンドロイド)」と名付けられたこのロボットについて開発者の佐藤博氏は、文章を入力するとペンを使って紙に代筆をしてくれる『手紙の代筆』ロボットだと説明。
人と人とのつながりを作る上で、デジタルでどうしても伝わらないものがある。その一つとして、手書きの文字や絵がある。そう気がついてから、アナログの“ハートが伝わる”良さを実現したいという想いで制作したのがPENDROIDである。
……と、以上が記事の要約だ。
前の投稿に、ペンを手に取らない私たちの未来、そして執拗な文字練習の不要論について書いた。
手書きが必要な場面では「ロボットがあなたの代筆をしてくれる」、そんな時代が間違いなく到来するのだ。
ロボットの書く字よりも美しかったり、個性ある字を書けるようになるための習いごとやそれを極めた者というのは一部残っていくに違いないが、それはもう方向性としてはアートであり、標準的な“ウツクシイ”文字は機械が任されるようになるのである。

コラム 第30回

【きれいに文字を書いたり、早く計算したりするトレーニング…パソコン・AI時代の小学生に必要か?】
🖉
TVでよく見かける産婦人科医で医学博士の宋美玄(そん・みひょん)氏の意見が、上のタイトルで記事になっていた。
ただ文字を綺麗に書いたり、早く計算したりするトレーニングには限られた時間をあまり割きたくない。将来、機械やAIに取って代わられそうな能力や、応用の利かない単純な能力よりも、自身のこどもには遊びや情操教育による多様な経験、人と人との関わり合いに時間を取ることを選びたい。……という内容であった。

賛否両論あるだろう意見だが、私は賛成だ。
文字学習の観点でのみ語ることにするが、学校で宿題として出され続けているのは、学校側の怠慢であるとさえ思う。「とりあえず昔から続いているから」なのだろう。
まず、近い将来、自筆するということは、全員にとって必要なことでなくなる。メモとして、自分で確認するだけの筆記は残っても、他者にとって読みやすい字を書く必要は、なくなるのだ。
それは、機械に取って代わられる。機械の書く字こそ、万人に受け入れられやすい字であり、万人が変わらずできる表現となる。変換の精度さえ上がってくれば、タイプさえ必要のない時代が来るのである。
🖉
もちろん“書く”という行為には、それを読む人のため、という目的を超えた奥深さがある。
私もちびっこ生徒たちによく話すのが「美しい字と丁寧な字は、必ずしもイコールではない」ということ。字を丁寧に書くことで、育つこころというものが確かにある。“丁寧”であろうとすることは、何より尊重されるべきである。これまで、人の内面を映すと考えられるものの大きな一つとして“書かれる字”があり、それを念頭にした教育が確かにあった。
しかし、それは“字を書くこと”が私たちの生活の中で大きなウエイトを占めていた時代の“教育”である。新しい時代において我々は、一部の表現者を除いて、字を書かなくなる。そのことを前提に据えたとき、学校が課題として出す筆記の反復は、子の貴重な時間、紙、そして体力を消耗させるばかりの悪習となる。“丁寧”を育てることは、他の作業の中でいくらでもできるはずだ。
🖉
それでも、その過渡期たる現在においては、まだまだ“美しい字”を目指す教育に魅力を感じる方もいるだろう。ただ、それはもう「趣味の問題」だ。好きなことを好きなように追求するのが、趣味である。
生徒たちがきちんと書き上げていったところで、学校の先生たちは生徒たちの抱える文字の諸問題・修正すべき点について、個々に向き合ってはくれない。字がきれいにかけない理由は、実に様々あるのに。
“丁寧”を学ぶ作業の一つとして、個々に美文字を追い求めるならば、各家庭の方針次第。自由である。それが半端な課題として学校から与えられるばかりであるから、反対派の自由を叫んでみたというのが、宋美玄氏の意見への私なりの理解である。
🖉
私自身いろいろと発信しているが、私の書いた字を読んだことがある方は、圧倒的に少ないはずである。
それでも、私の内側にある丁寧さを感じ取ってくれる方がいるとすれば、それは文字ではなく、文章からであるはずだ。
どんなものからでも“丁寧”を身につけることはできる。“丁寧”は文字以外からでも伝わる。「文字で“丁寧”を学ぶ」というこだわりを捨てて、こだわりたいほど好きになれる何かを通じて“丁寧”を学べばいいのである。

コラム 第27回

小さな目標を立てての自学自習。
その大切さが分かった人は、好きなものを好きなだけ勉強するようにしてください。
気が向いた時には、その熱が冷めるまで。気分が乗らないときには、1項目や1問でもいい!と割り切って。
する時はする何もしないは避ける。その習慣が身についてくるだけで、未来は明るいのですよ。



さて、今日のテーマは【何を勉強の材料とするか】です。
単刀直入に言えば、必要なのは杖となる一冊の参考書と補佐役としてのGoogleです。


◆まずは好きな科目から◆
まず手を出すべきは、やはり好きな科目です。親友や好きな子を優しく想いやれないような人は、皆に優しくなんてできません。好きな科目、頑張ってみたい科目で“小さな習慣”さえ続かないようならば、それは目標設定に無理があるか、まだ勉強するタイミングで無いかだと言えます。何か一つで小さな自信をつけてから、手を広げるようにしましょう

科目が決まったら、本屋さんへ足を運び、参考書を探します。続けられそうな一冊を探しますが、進め方も自身の思う通りでいいのですから、気を楽にしてください。勉強に不慣れな人は、薄い冊子を求めて、どんどん終わらせる喜びを実感していくのもいいですね。疑問や気になることが出てきたら、Google先生にどんどん聞きます。気の済むまで掘り下げましょう。

気の向くまま、気の済むまで

◆充実の向こう側へ◆
勉強を続けていれば、必ず充実感が湧いてきます。この充実感によって心のエンジンがかかり、内発的動機づけによって前進しようとしている自分に気が付く、という精神状態にたどり着くことが重要です。ここでも「早く気付いた者勝ち」。気づきがあったら素直に行動してみましょう。
そのうちに、初めに選んだある教科は、得意科目として自信を与えてくれるようになります。そして「ある教科だけ得意である」という状況の向こう側、つまり他の科目への吸収意欲もまた、頭をもたげてくるのです。


◆Straight roads do not make skillful drivers◆
好きな科目から、自分で選んだ続けられそうな参考書で学ぶ。
何の変哲もなさそうな学習ですが、今回までにお伝えしたように、向き合い方が違います。
近道を探して慌てるよりも、“自分らしく”地道を歩みましょう。一気に拓ける瞬間がくるのです。


【つづく】

コラム 第26回

さて、コラムは本題に戻ります。
自ら進んで勉強に取り組む。そういう子たちの仲間入りをするために、勉強嫌いな子たちがくぐるべきは、どのような入り口なのでしょうか。


勉強するのがイヤなら、勉強しないほうがいい。……と、先のコラムでは書いてきました。それが、まぎれもない私の本音、正しい勉強との向き合い方だと思っています。
しかし、本当に不思議なのですが、勉強には“しない言い訳”よりも“しなきゃいけない言い訳”がたくさん揃っていて、それを意識せずにはいられないというのが、こどもたちの多くにとっても実際です。


「『しなさい』って言われてするのはイヤだ。ツマラナイ。」
これは、勉強“しない言い訳”の代表例の一つですが、「だったら、“しなきゃいけない”と分かっている勉強を、自分の思うままに進めましょう。」というのが、やはり私の回答になります。
そして、とにかく続けられるように「ハードルは下げまくれ!」とも伝えます。みんな重い! 重い重い重いっ!!というのが私の考えです。


『小さな習慣』スティーヴン・ガイズ(著)/田口未和(翻訳)

この春刊行された上の書籍、皆さまの中にもネットや書店で見かけられた方がいらっしゃるかもしれません。なんだか、可愛さとゆるさの先行する表紙なのですが、こどもたちの習慣づくりにも役立つことが書かれていました。
●習慣化されていない行動をするときには、モチベーションや意志の力が必要だが、それがかえって「何かをするとき」の大きな障害になる。
●“小さな行動”による成功の繰り返しで自己肯定感が生まれ、自信となり、繰り返しが習慣になると、習慣化された行動が大好きな脳によってようやく「新しい変化」を受け入れられる。
……とまぁ、そんなことを脳の仕組みや潜在意識の法則とやらから、解説しています。


目標と達成について、「腕立て伏せは1回からでいい」と例が挙げられていたのですが、なるほど確かに!と感心しました。自分にとって重い目標を立て、腰が重くて持ち上がらない。そんなことを繰り返すくらいなら、「毎日1回」の方が先へ進みます
1を10にしていく試みよりも、0を1にすることのほうが大変だというのは教育分野にいて日々感じることです。それを、ハードルを思い切り下げることで、軽やかにスタートさせようというのです。「1回では、しょーもない」と考えてしまいがちですが、話題の“自己肯定感”はココで使うのですね。 


ここまで読んで物足りなさを感じる方も、忘れないでください。これは入り口です
でも、確実に能動的で、前向きな進路です。バカにしてはいけません。指示されてする学習なんかより、よっぽど後に活きてくる第一歩。それゆえ干渉無用口出し厳禁です。(そもそも勉強を管理・口出しされている子に、優秀な子はいません。これまでに、一人の例外も見ていません。)

試験直前の子でもなければ、慌てず、とりあえず3日間、“最小目標”を達成しながら過ごしてみてください。その後で「これじゃ、しょーもない」と本人が気づき、“最小卒業”と“次の目標”を決められれば、すばらしい! 3日間で我慢したのが「もう少し(勉強を)進めたい」という気持ちなら、嬉しいですね。
ただし、こどもたち諸君、ハードルは上げすぎないように! そして息苦しくなったら、“小さな目標”で成功した経験を思い出して、いつでも立ち返りましょう。勉強は楽しくなければいけません。







次回は、「では何をするのか」ということをテーマにお話しします。
もちろん自由、何でもいいんですけれどね、基本は(^^♪


【つづく】


※マーク先生は「“自己肯定感”を育てる」というのが大嫌い! これについては、また別に書きます。

コラム 第25回

今日は、「勉強しない」と頭を抱えてしまうような子についてです。


私のかつての同級生の中にも、もちろん勉強しない者はいました。「自勉」さえ気が向かない、「勉強」と付くかぎり遠ざかりたい、という者はいて当然です。同じ時間をもっと他のことに使いたい、という言い分の者もいたでしょう。それは、「まだ勉強する“時”ではなかった」ということです。

勉強をしたくなければ、何か他にしたいことを思い切りしたらいいのだと思います。その代わり、思い切りです。思い切り向き合えないのなら、それも心のどこかで「ちがう」と感じているものなのでしょう。そうしたら、それも止めて、本気のものに取り組んでください。見つからない?それなら、周囲の人間観察でも一生懸命にしてみてください。

ここで、“勉強しない子”も二手に分かれると思うのです。


一方は、勉強以外に本気で向き合えるものを見つける子。存分にそれをしましょう。夢中になれるものを持ったことのある子は、勉強する必要性に気が付けた時に、素直に勉強にのめりこむようになります。少しの遅れくらい、人生で気にする必要はありません。勉強しないなら、他のことを! 夢中になってかじりつくなら、それもアリなのです。

もう一方は、結果として勉強から逃げながら、でもどこかで勉強のことを意識している子です。他に本気になれるものの有る/無しに関わらず、思い切れずに勉強のことを心配しています。
時々、勉強のことは気になるけれど……本当は勉強したいけれど……などと前置きしながら「勉強するのがキライ」と私に向かって宣言してくれる子がいるのですが、ん~論理的ではありません。その前置きが正直なものならば、本当に「勉強がキライ」なのではなく、勉強方法(“勉強ってこういうもの”という考え)が間違っているのです。
型にはめられるのがイヤならば自由に、丁寧に教わって進むのがよければそのように、とにかく心の所望する通り、好きなように勉強すればいい。それは、能動的であるということです。

あ、勉強をしない子の第三派目がありました。何事も半端にして大切なことから逃げ回り、こころを腐らせる子です。素直さまで捨ててしまうと、そうなります。
これは、周囲の大人のせいというのが大きいでしょう。いい大人に出逢えていません。(本人たちが“何かのせい” “誰かのせい”にしてはいけませんが)
上にちらっと書きましたが“気が付く”、これは本当に大事なことです。塾生たちに「人生には〈早く気が付いた者勝ち〉の側面がある」と話すことがよくあります。本気になるのは、いつも何か“ハッとさせられる”ことがあった後です。ハッとできるのは、素直なときです。

赤毛のアン』には、主人公のアン・シャーリーが、ギルバート・ブライスと張り合い、勉強に打ち込む姿が描かれています。その彼女も夏休みは遊んで過ごし、新しいタームの到来とともにハッと気が付いて勉強に励み出すのです。実によく勉強します。 あぁ、アンにもステイシー先生という尊敬する人物がいたのでしたね!


【つづく】

赤毛のアン〈上〉 (偕成社文庫)
「赤毛のアン」が教えてくれた大切なこと
完訳赤毛のアンシリーズ 全10巻
少年少女 世界名作の森 全20巻・全巻セット (世界名作の森 全20巻)

コラム 第24回

私が小学6年生だったのは、23年前。そのときクラスを受け持ってくれた恩師に、この夏再会することができました。“日本一の先生に選ばれたことがある、自慢の先生です。
※どうやって選んだのか分かりません。ただ、もう定年退職されましたが、その前にも東京都小学校PTA協議会から再び表彰されることがあったようです。本当にいい先生でした。

その彼女が毎日(愛する!)教え子たちに課したのは自勉(じべん)でした。読んで字のごとく、自ら課題設定して進める勉強、それが宿題です。
学校で勉強したことの復習はもちろん、授業の面白かったところだけを切り取って理解を深めるのも、学習をどんどん先取りして自分勝手に進めるのも、何でも自由でした。

しかし、制約のない完全な自由って、むしろ息苦しいものなのです。初めは苦心しました。正確に言えば、始まって少しして苦労するようになりました。ただ、私たちの先生は、毎日提出される自勉の中からイイものをピックアップし、“クラスだより”にコメントと共に掲載してくれました。載った子は自信になる、それを見た子はヒントを得る、自分も採り上げられたいと燃える。そんなイイ空気がクラス全体にひろがっていました。

↑宮沢賢治「やまなし」を扱った自勉ノートから↓


前回の続きになりますが、「イヤだ」と思うことを勉強しても、覚えにも理解にもつながりにくく、意味がありません。時間をかけたのに成果につながらず落ち込む、そんな生徒たちの気持ちを私は100%理解しますが、どこかで「イヤだ」と思っているものには能力が発揮できないようになっているんです、多分。ですから、そのことで自信まで失ってはいけません。
自信は、本当に上達したい何かのために、取っておくべきです。その大切な自信を失うくらいなら「イヤなこと」をさせられてダメと判を押されそうになり、落ち込みそうにまでなっている現在の自分自身というものを、一度根底から疑ってみてください。勉強するのがイヤならば、勉強してはいけないのです。

【つづく】

コラム 第23回

これはカマキリ
一昨日は代官山教室の室外機に、昨日は窓にしがみついていた、おそらく作文好きな一匹のカマキリです。


虫って、爬虫類と並んで、本当に好き嫌いの分かれる不思議な生き物ですね。虫が好きな人は、大人もこどもも、よーく観察します。一方で、もしも「夏の間に虫10匹、よく観察して自由にまとめてくるように」なんて宿題が出たら、虫が嫌いな人たちは適当に図鑑などをマネて片づけるでしょう。(大騒ぎしてSNSで拡散し撤廃させるという一部の過激な意見は今回無視) 彼ら彼女たちからしたら、そんな課題に一生懸命になれる人たちなんて「どーかしてる」のかもしれません。


勉強”でも、同じことが言えませんかね。


好きでもないのに指示されてすること、それが楽しいはずはありません
楽しくないのに時間をかけて取り組むことを強要されても、作業にかけた時間に見合うだけの見返りを期待できないような、小手先の成果を披露/提出して終わりです。


学校が変わらなければ完全には無くなりませんが、もうそんな指示待ちの、受動的な勉強は極力減らしましょう。勇気をもって減らしていくべきです。


では、「どーかしてる」と思うほど勉強に傾倒できる人たちの仲間入りをするために、勉強嫌いな子たちは、どんな入り口をくぐればいいのでしょうか。

【つづく】