コラム 第2回

とにかく、書く。
その時間を与えたい。
それが、作文塾という〈場〉です。


文章を書いたり、発言したりというときに、どうしても「こう書いていいのかな」「これを言ってしまって、いいのかな」と自信がなく、積極的になれない子が見受けられます。
いや、そういう子も、あるいはそういう子こそ、頭の中は積極的にフル回転させていると言えます。ですから“前進できない子”と表現すべきでしょうか。

受講生の中に、入室して半年間が経過していながら、まだ小声でしか私に対してリアクションできない少年がいます。
素直で、吸収力がある。そのため、短期間に作文の能力自体は間違いなく向上しました。寡黙でも、じつはある程度自由に書き進められるほど文章パターンを獲得しはじめていて、頭の中で「あれがいいか、それよりこれがいいか」と取捨選択までできている。 ……のに、前に踏み出せない。私に一度尋ねて、“保障”なり“お墨付き”なりを得てからでないと筆を進められない。それでは困るのです。

サッカー少年の彼に、練習は何のためにするのか尋ねると、うまくプレーするためと答えがありました。「いつ」うまくプレーするためなのかを考えると、それは結果の求められる試合という場がある以上、「試合本番で」と答えることになります。
新しいもの、良いところを取り入れる目的でしか【インプット】は為されません。それに当たるのが練習であり、勉強であり、情報収集などであるでしょう。一方、【アウトプット】の機会として試合や試験などがあります。
※雑多な情報をあえて取り入れようとする人も、やはり好んでそれをしていると考えます

作文の授業で得たものに関しては、私たちの生活に話す機会/書く機会がある以上、いつでもアウトプットの場が与えられていることになります。自分の口やペンから出てくることばが、他者へ直接働きかけるものとなり、相手のもつ印象につながるのです。当塾がもう一つ教育の柱として考えている読書についても、同じことが言えますね。

しかし、難しいのが、インプットしたものも“自信”というフィルターを通さなければ、きちんとアウトプットされないという点です。
自分が持っているのは確かなものだと信じる気持ちが不可欠であり、その確信を育むために必要なのがまた、練習(反復)なのですね。
無情にも聞こえますが、それはちょうどメビウスの輪のように、縁を乗り越えず表と裏を行ったり来たりする繰り返し。ただ、決して無限ループではなく、どこかで「できるようになった」ということの喜びを味わえるものです。また、作文は暗記主体の勉強とは違い、その喜びの獲得をもって、一生を支える技術を手に入れることにもつながるのです。


ですから、精力的に執筆することが、とにかく大事です。書けば書くほど、方程式のようなものが自然と頭にインプットされていくのです。そのうちに、新しい材料をそこに放り込めば、自ずとアイディアが溢れてくるようにもなります。
様々な素材を用いた、誰が見るでもない文章の記述。その繰り返しは、決して無駄になることのない、未来への貯蓄です。

教室は、失敗もできるインプットの場。
自信が持てないなら、自信があふれてくるまで書くこと。
生徒にも、そのように声掛けしてみました。 がんばれるかな。 楽しみです。

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