例えば、ママの作ってくれるものの中でも、チョコレートブラウニーが好きだという女の子には、
「お母さんが作ってくれるブラウニーは、○○のような味がする」という文章で、それを食べたことのない他者にでも美味しさが伝わるような説明をしてもらいました。
こんな書籍も出ていますね。読みましたが、くやしいくらい面白かったです。 |
・誰もが好きであろう“美味しいもの”で例える
・ブラウニーのキーワードとなりそうな「あたたかさ」「あまさ」に焦点を当てて、似ているもので例える
・モノ対モノだけでなく、モノを状態で例える
……などと説明しながら楽しく進めていたら、
「ホッカイロのようにほっとする味がする」や「ブランケットにくるまれたみたいにあたたかい味がする」など、惹きつけられるような文章が次々に上がってきました。
そして、その中で
「ユニコーンの魔法のような味がする」と見たときに、私は“先生”であることを忘れて喜びました。
だって、評価できないですもの。すごいでしょう?! 私なんかがどこか遠くへ忘れてきてしまった味の表現です。
『……うん、それってどういう味なの?』などと聞いてしまえば、たちまちその子が目の前に描いていた世界が消え去ってしまう、そんな気がしました。
喜びながら「その感覚を大事にしてね」とだけ言葉を添えて、花マルしました💮
こどもたちは、もともと素晴らしい考え(言葉になる前のイメージ!)を持っています。
掘ればいくらでも出てきますし、掘り出されたものの磨きかたを教えれば輝きを放ちはじめ、たちまち四方八方、自由に光をのばします。
しかし、どちらにしても最初は大人が手本を示さなければならないのに、この受け身の社会は評する者ばかりをつくってきてしまったように思います。
そろそろ、教育も“つくり出す人”を育てる時代。
その現場では、バツ印など無用で、花マル💮が躍るのです!!
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