コラム 第6回

母の日に考えごとをしました。
少し前に読んだ雑誌DIMEのネット版、@DIMEにあった次のタイトル記事を見返してのことです。


〈「口出しをしない」親のほうが子どもの将来の目標がはっきりしている傾向あり〉 2016年4月19日
以下は、タイトルに関連する部分だけをミニマム記事としてまとめたものです。

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東京大学社会科学研究所と株式会社ベネッセホールディングス社内シンクタンク「ベネッセ教育総合研究所」が共同で 「子どもの生活と学び」の実態を明らかにすることを目的に2014年スタートさせたプロジェクトが、小学1年生から高校3年生の親子約1万6000組のデータ分析結果として挙げた中に、次の二つがあった。

●保護者の応援を受けている子のほうが、「将来の目標がはっきりしている」「難しいことや新しいことにいつも挑戦したい」「自分でできることは自分でする」「一度決めたことは最後までやり遂げる」といった項目にポジティブな回答をする割合が高い。
●「何にでもすぐに口出しをする」保護者よりも「口出しをしない」保護者の方が、子どもが「将来の目標がはっきりしている」「難しいことや新しいことにいつも挑戦したい」「自分でできることは自分でする」「一度決めたことは最後までやり遂げる」で「あてはまる」と回答する割合が高かった。

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こどもの教育に関する不安について尋ねた結果、小1~高3いずれの学年でも、約半数の保護者が「子どもの将来の自立への不安」を挙げ、特に男子の保護者でより強く表われている。……とも記事中にありましたが、語弊を恐れずに言えば、とにかく保護者はこどものことに夢中になりすぎているように思うのです。

健康面あるいは心の問題や性格について気にかける親心や、節度ある人間に育ってもらいたくて言葉づかいや整理整頓・片付けなどに意識が向くことは、よく分かります。
しかし、友達との関わり方、学習成績・取り組み方、ゲームやスマートフォンの使い方などにまで……となると干渉しすぎではないでしょうか。

「語弊を恐れず言えば」と前置きしました。無関心で構わないというのではなく、家で、いかにも親として、それらに口出しするのは止めにしたほうがよい、ということが言いたいのです。家ですべきは、外で良い例を見つけマネできるこどもを育てることです。小さい頃からすべきは、そのための訓練です。

ところで、データ分析結果にあった「応援する」と「口出しする」の違いは何でしょうか。一見して、似ていますよね。
受け取り方の問題と一刀両断されてしまう前に、私はこれを「背中を押してあげること」と「手を引いて先導しようとすること」と言い換えたいと思います。
「背中を押す」とき、行動の主体はいつも前を歩む者です。行動主が見ているのも前。何かで迷っていたり、ためらっていたりする時に、後ろから少し力を貸して押してあげる、あるいはひと休みを提唱する。これが「応援する」こと。
一方、「先導する」とき、先導者が導く先を把握しているのと同じように、あとからついていく者がそのゴールや視野を共有しているとは限りません。今回の場合、前を行くのは保護者。小さいうちはこどもが親(主にママ)との同化を楽しむ力を利用して、小学生以降になると「あなたにはまだ分からないだろうけれど」を前提に、とにかく前へ前へ引っ張っていこうとする。大人には経験も体力もありますし、とにかく我が子に一生懸命なので、手を引くその力はこどもからすると思いのほか強いものかもしれません。言うまでもなく、こどもは行動の主体をレールの上で演じさせられているわけです。こどもが前を歩いていれば行き当たったはずの困難や試練、分かれ道などが、保護者の先導によりほぼ片付けられ、きれいに舗装された一本道を歩かされるようなケースまであります。
つまり、こどもからすると、自分で歩んでいる実感があるか親の思惑を感じるかで、「応援」「口出し」のように受け取り方の違いが出てくるのかもしれません。

口出しと受け取られるようなことは、もう止めにしたほうがいい。
引っ張るのも追い立てるのも止めにして、「この子には、この子の世界がある」と、こどもの行動・行く先を見守りつつ、必要な時にだけサポートするという姿勢をとったほうがいい。そう思います。
保護者が軸として持たなければいけないのは、(これも少しさびしい言い方になりますが)自身とこどもは別人だという意識です。
こどもが小さいと親ならではの錯覚をしがちですが、こどもが大きくなれば分かります。

どんなに可愛く感じていて、囲っていたくても、こどもが外に出ていく日、いろいろなものを目にする日はやってきます。
お雑煮の作り方のように、家の方針を引き継いでもらえるものもあるかもしれませんが、家を一歩出れば、身近な集団から一歩離れれば、価値観も何も千差万別で、その中からどれにキラリと光るものを感じ、何を試し、何を選んでどんな人間になっていくか、それが個人のあるべき一生でしょう。

そんな中で、“我が子”から“個人”になっていこうとする者に対して保護者ができるのは、“親として”を意識しすぎることなく、一番身近にいる“大人として” “人として”、生き方を見せることではないでしょうか。
これは、言葉にならないメッセージとして、確実に伝わります。自身の人生が失敗の多いものだったと思ったら、失敗者であることを包み隠さず、大人としてもう変えられない現実を伝える一方で、今から動かせる現実についても具体的な行動とともに示す。たかだか30~40年、50年で人生を知ったかぶりせず、今を生きている途上だと、勉強する姿勢を見せるのです。
難しいことですよね。でも、難しいことに向かったぶん良い結果が期待できるのは、大人のフィールドもこどものフィールドも同じなんです、たぶん。

保護者が行えば失敗しがちな先導役は、どんな場面でも“先生”と呼ばれる人が、各々の道のプロとして担うべきです。
あるいは、こどもたちにとって学びのある者を“先生”と呼ぶのだといったほうが良いでしょうか。

誰を目標に、どのように人生を歩むか。それは世界に生きる一人として、こどもたちが決めます。
その時、目標にしたい生き方の一つとしてこどものこころに居られる保護者は幸せものです。
きっとこどもに対し正直で、こどもたちが初めにマネしたくなった良いお手本であり、最初の“先生”だったのだろうと想像します。


ある程度の「口出し」は受けましたが、私にとっての母もそんな感じです。
いつも感謝しています

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