私のかつての同級生の中にも、もちろん勉強しない者はいました。「自勉」さえ気が向かない、「勉強」と付くかぎり遠ざかりたい、という者はいて当然です。同じ時間をもっと他のことに使いたい、という言い分の者もいたでしょう。それは、「まだ勉強する“時”ではなかった」ということです。
勉強をしたくなければ、何か他にしたいことを思い切りしたらいいのだと思います。その代わり、思い切りです。思い切り向き合えないのなら、それも心のどこかで「ちがう」と感じているものなのでしょう。そうしたら、それも止めて、本気のものに取り組んでください。見つからない?それなら、周囲の人間観察でも一生懸命にしてみてください。
ここで、“勉強しない子”も二手に分かれると思うのです。
一方は、勉強以外に本気で向き合えるものを見つける子。存分にそれをしましょう。夢中になれるものを持ったことのある子は、勉強する必要性に気が付けた時に、素直に勉強にのめりこむようになります。少しの遅れくらい、人生で気にする必要はありません。勉強しないなら、他のことを! 夢中になってかじりつくなら、それもアリなのです。
もう一方は、結果として勉強から逃げながら、でもどこかで勉強のことを意識している子です。他に本気になれるものの有る/無しに関わらず、思い切れずに勉強のことを心配しています。
時々、勉強のことは気になるけれど……本当は勉強したいけれど……などと前置きしながら「勉強するのがキライ」と私に向かって宣言してくれる子がいるのですが、ん~論理的ではありません。その前置きが正直なものならば、本当に「勉強がキライ」なのではなく、勉強方法(“勉強ってこういうもの”という考え)が間違っているのです。
型にはめられるのがイヤならば自由に、丁寧に教わって進むのがよければそのように、とにかく心の所望する通り、好きなように勉強すればいい。それは、能動的であるということです。
あ、勉強をしない子の第三派目がありました。何事も半端にして大切なことから逃げ回り、こころを腐らせる子です。素直さまで捨ててしまうと、そうなります。
これは、周囲の大人のせいというのが大きいでしょう。いい大人に出逢えていません。(本人たちが“何かのせい” “誰かのせい”にしてはいけませんが)
上にちらっと書きましたが“気が付く”、これは本当に大事なことです。塾生たちに「人生には〈早く気が付いた者勝ち〉の側面がある」と話すことがよくあります。本気になるのは、いつも何か“ハッとさせられる”ことがあった後です。ハッとできるのは、素直なときです。
『赤毛のアン』には、主人公のアン・シャーリーが、ギルバート・ブライスと張り合い、勉強に打ち込む姿が描かれています。その彼女も夏休みは遊んで過ごし、新しいタームの到来とともにハッと気が付いて勉強に励み出すのです。実によく勉強します。 あぁ、アンにもステイシー先生という尊敬する人物がいたのでしたね!
【つづく】
赤毛のアン〈上〉 (偕成社文庫) |
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