コラム 第30回

【きれいに文字を書いたり、早く計算したりするトレーニング…パソコン・AI時代の小学生に必要か?】
🖉
TVでよく見かける産婦人科医で医学博士の宋美玄(そん・みひょん)氏の意見が、上のタイトルで記事になっていた。
ただ文字を綺麗に書いたり、早く計算したりするトレーニングには限られた時間をあまり割きたくない。将来、機械やAIに取って代わられそうな能力や、応用の利かない単純な能力よりも、自身のこどもには遊びや情操教育による多様な経験、人と人との関わり合いに時間を取ることを選びたい。……という内容であった。

賛否両論あるだろう意見だが、私は賛成だ。
文字学習の観点でのみ語ることにするが、学校で宿題として出され続けているのは、学校側の怠慢であるとさえ思う。「とりあえず昔から続いているから」なのだろう。
まず、近い将来、自筆するということは、全員にとって必要なことでなくなる。メモとして、自分で確認するだけの筆記は残っても、他者にとって読みやすい字を書く必要は、なくなるのだ。
それは、機械に取って代わられる。機械の書く字こそ、万人に受け入れられやすい字であり、万人が変わらずできる表現となる。変換の精度さえ上がってくれば、タイプさえ必要のない時代が来るのである。
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もちろん“書く”という行為には、それを読む人のため、という目的を超えた奥深さがある。
私もちびっこ生徒たちによく話すのが「美しい字と丁寧な字は、必ずしもイコールではない」ということ。字を丁寧に書くことで、育つこころというものが確かにある。“丁寧”であろうとすることは、何より尊重されるべきである。これまで、人の内面を映すと考えられるものの大きな一つとして“書かれる字”があり、それを念頭にした教育が確かにあった。
しかし、それは“字を書くこと”が私たちの生活の中で大きなウエイトを占めていた時代の“教育”である。新しい時代において我々は、一部の表現者を除いて、字を書かなくなる。そのことを前提に据えたとき、学校が課題として出す筆記の反復は、子の貴重な時間、紙、そして体力を消耗させるばかりの悪習となる。“丁寧”を育てることは、他の作業の中でいくらでもできるはずだ。
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それでも、その過渡期たる現在においては、まだまだ“美しい字”を目指す教育に魅力を感じる方もいるだろう。ただ、それはもう「趣味の問題」だ。好きなことを好きなように追求するのが、趣味である。
生徒たちがきちんと書き上げていったところで、学校の先生たちは生徒たちの抱える文字の諸問題・修正すべき点について、個々に向き合ってはくれない。字がきれいにかけない理由は、実に様々あるのに。
“丁寧”を学ぶ作業の一つとして、個々に美文字を追い求めるならば、各家庭の方針次第。自由である。それが半端な課題として学校から与えられるばかりであるから、反対派の自由を叫んでみたというのが、宋美玄氏の意見への私なりの理解である。
🖉
私自身いろいろと発信しているが、私の書いた字を読んだことがある方は、圧倒的に少ないはずである。
それでも、私の内側にある丁寧さを感じ取ってくれる方がいるとすれば、それは文字ではなく、文章からであるはずだ。
どんなものからでも“丁寧”を身につけることはできる。“丁寧”は文字以外からでも伝わる。「文字で“丁寧”を学ぶ」というこだわりを捨てて、こだわりたいほど好きになれる何かを通じて“丁寧”を学べばいいのである。

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